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まだ名前の無い○○第6回ホモソーシャルの招待状とは世の中には、「まだ名前の無い」問題が、山のようにある。しかし、もともとそこにあった現象に、「DV」、「セクハラ」、「パワハラ」など、名前を付けたことによって、その問題の存在が明らかになり、解決へと歩み出したことは多い。この連載では、号替わりの筆者による「まだ名前の無い○○」を、見つめていきます。を追い詰めたことも多々あった。男同士で戯れ、ケラケラ笑い合ったりもしていたが、一方で排除や序列の低下に対する恐怖心が常につきまとっていたことも確かだ。Aさんは「なぜ“男扱い”の手段が女性蔑視なのか」と首をかしげていたが、男同士の連帯を確かめ合う方法のバリエーションが狭く限定的なのは否定できない事実だと思う。そういうふうにしかつながることができないとしたら、はたして俺たち男の間に“絆”なんてものが存在するのだろうか?学校でも、会社でも、趣味の仲間でも、あるいはオンライン上のコミュニティなんかでも、男性たちの間に特有のノリや空気が発生することはよくある。Aさんが教えてくれた「ホモソの招待状」という言葉は、そういった圧力が生まれる瞬間を可視化してくれる概念ではないだろうか。実体を露わにしないまま集団の規範を支配し、強要や差別や排除を引き起こしていくものだからこそ、まずは言葉でその輪郭を捉えていくことが大事ではないかと思うのだ。●きよた・たかゆき文筆業、恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表。早稲田大学第一文学部卒業。「恋愛とジェンダー」をテーマに『QJWeb』『すばる』『共同通信』など幅広いメディアに寄稿。朝日新聞beの人生相談「悩みのるつぼ」では回答者を務める。著書に『どうして男は恋人より男友達を優先しがちなのか』(イースト・プレス)、『よかれと思ってやったのに──男たちの「失敗学」入門』(晶文社)、『さよなら、俺たち』(スタンド・ブックス)など。女子美術大学非常勤講師。フォーラム通信2021夏秋号8業アルバムを持参し、女子をランクづけして盛り上がることもあったし、どれだけ過激ないたずらを仕掛けられるかで競い合ったりもしていた。大学生になってからも、飲み会で先輩から水と称して日本酒を渡され、それを涼しい顔で一気飲みするのが習わしだったし、駆け出しライターの頃は、関わっていた雑誌の編集会議で“すべらない話”を求められることが本当にプレッシャーで、毎回栄養ドリンクを飲みながら必死に乗り切っていた。「ホモソの招待状」は女性蔑視、同性愛嫌悪、下ネタ、チキンレース、無茶振り、同調圧力、立場が上の人への忖度……など様々な形でやり取りされる。それらを断れば「サムいやつ」と見なされ、序列が下がったり集団から排除されたりしてしまう。しかも恐ろしいのは、招待状も圧力も排除も“ノリ”とか“空気”みたいな装いをまとっている点だ。当事者にはっきりした自覚はなく、それどころか「円滑なコミュニケーションのため」とすら思い込んでいる節もある。私もかつてホモソーシャルにどっぷり浸かって生きていた。とりわけ中高生の頃から20代後半にかけてが顕著だった。招待状を受け取り、必死に乗っかっていた部分もあるし、逆に自分が出す側になり、誰か知人のトランス男性Aさんから「ホモソの招待状」という話を聞いた。ホモソーシャルとは「男の絆」や「男同士の連帯」などを意味する言葉だが、例えばAさんはシスジェンダー(出生時に割り当てられた性別と性自認が一致している人)の男性といるとき、「女って○○だよな?」などと女性蔑視的な話題を振られることがあるそうだ。それに乗っかれば仲間と見なされるが、同調しなければ「こっちは男として扱ってるのに」「なんだ、お前やっぱり女なんじゃん」という顔をされ、排除や攻撃の対象にされかねない。本心としては嫌だなと感じているが、それを表明することにも怖さがつきまとい、どちらともない曖昧なリアクションでやり過ごすことが多いという。それは招待状のようでもあり、同時に踏み絵のようでもあるとAさんは語っていた。わかる……と思った。シス男性である私がまったく同じ経験をしているわけではもちろんない。しかしAさんの話を聞いたとき、過去の様々なシーンが脳裏によみがえったことは確かだ。男同士の関係においてやりとりされる、「お前こっち側の人間だよな?」「このノリ共有できるよね?」という暗黙のメッセージ。私は「ホモソの招待状」をそのように理解したのだが、これは身に覚えがありすぎると言っていいほどのものだった。男子校に通っていた中高時代、クラスには読み終わったエロ本を持ち寄って交換する謎の風習があった。昼休みは校庭でサッカーやバレーボールに興じ、負けた者は罰ゲームとして全員から“肩パンチ”を食らった。みんなで共学時代の卒【今回の担当は清田隆之さんです】現在1歳半になる双子育児の真っ最中なのですが、毎日眠くて仕方ありません……