「フォーラム通信」2020年春号

「横浜から男女共同参画社会の実現を考える」。公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会が発行する広報誌です。2020年春号の特集は、「私、の好きな人」。


>> P.4

私、の好きな人できることを見つけて学び続け、生涯を通じて弱い立場にある人々に寄り添おうとしたチェイスの人生の歩みに胸が熱くなります。MaryAgnesChaseメアリー・アグネス・チェイス植物の世界との運命の出会いメアリー・アグネス・チェイス、旧姓メラは、一八六九年、イリノイ州に生まれました。ちなみにそのころ、日本では江戸時代が終わったばかり。アメリカではリンカーンの奴隷解放宣言が一八六三年、南北戦争が終結したのが一八六五年ですから、彼女が育った時代には、まだまだ奴隷制の傷跡が生々しく口を開けていたものと思われます。五人きょうだいのうちのひとりだったメアリーは、わずか二歳のときに父親を亡くし、小学校を卒業すると同時に働きに出て家族の生活を支えなければなりませんでした。彼女は家畜飼育場、食料雑貨店、倉庫などで働き、そのうち地域の教師のための小さな雑誌の校正および植字工の職に就きました。そこで雑誌の編集長だったウィリアム・チェイスと恋に落ち結婚。しかし、一年もしないうちにウィリアムは結核で亡くなってしまいます。メアリーはこのときまだ一九歳でした。夫を亡くした彼女は、新聞の校正フォーラム通信2020春号4の仕事をしながら、しばしば生活のために義理のきょうだいが経営する雑貨店で夜間のアルバイトをするようになりました。そこで彼女は、当時まだ幼なかったウィリアムの甥、ヴァージニアス・チェイスと親交を深めます。草花が大好きな少年となかよく遊ぶうちに、彼女もどんどん植物の世界にのめり込むようになりました。シカゴ近郊に出かけては植物をスケッチし、お金と時間が許すときにはシカゴ大学などで一般向けに開講されていた植物学の講座を受講しました。そうして知識を深めスケッチの腕を磨いていくうちに、チェイスは植物学の研究をしている牧師と知り合い、論文に添えるイラストを描くよう依頼されます。それらをきっかけにして、彼女はフィールド自然史博物館に植物イラストレーターとして有期雇用されました。雇用期間が終わると、彼女は博物館勤務中に身につけた顕微鏡での観察技術を活かし、シカゴの家畜飼育場で食肉検査の仕事をしたそうです。30代半ばでの人生の転機チェイスは一九〇三年、三〇代半ばにさしかかってようやく植物への情熱を活かせる安定した仕事に就くことができました。アメリカ合衆国農務省に植物イラストレーターとして雇用されたのです。彼女は職場の植物標本室で草について独学し、植物学者アルバート・ヒッチコックの助手を務めるようになりました。そのうち研究職の一員として認められ、ヒッチコックと共同で南北アメリカの草の研究を進めたのです。彼女は共著者として数々の論文や本を発表し、一九二二年には単著『はじ初心者のための草のめての草の本構造』を上梓しました。しかし、二〇世紀の前半には、チェイスが働いていた農務省のような政府の機関においてすら、性別を理由にした理不尽な差別が横行していました。調査旅行の資金が彼女にだけ支給されないといった不公平な扱いを受けたチェイスは、旅費を自己負担して研究に参加するなどの犠牲を払わねばなりませんでした。さらに彼女は女性参政権運動にも臆することなく打ち込み、たびたびデモに参加して逮捕されています。あるときは獄中でハンガーストライキをおこない、強制食餌の拷問を受けたこともあるというから生半可な覚悟ではありません。彼女たちの運動は、一九二〇年にアメリカで女性参政権が認められるのに貢献したと言われています。チェイスはこうした社会運動への


<< | < | > | >>