003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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すじの人で、趣味道楽がなく、蓄えた財を惜しみなく社会事業に投じた。夫の判がなければ大金は扱えない時代、妻の要求があまりに頻繁なので、判を斜めに捺したこともあったという逸話が残っている。渡辺てつ(わたなべ・てつ)評議員。家庭製作品奨励会会員。渡辺晴子(わたなべ・はるこ)一八九二(明治二五)~一九五八(昭和三三)賛助員。渡辺福三郎とたまの四男七女のうちの六女。一九一〇年、フェリス女学校本科を卒業し、同窓会の横浜支部常務幹事を務めた。高木二郎と結婚し、高木は福三郎・たまの養子となり、渡辺姓を名乗り家業を補佐するが、一九二六年に四十二歳で没。晴子はたまのそばにあって晩年まで面倒をみた。横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる224渡辺寿子(わたなべ・ひさこ)一八九七(明治三〇)~一九四二(昭和一七)賛助員。旧姓広沢。渡辺たまの次男利二郎の妻。渡辺文子(わたなべ・ふみこ)生没年不詳評議員。鎌倉生まれ。県立横浜第一高等女学校を一九一〇年に卒業後、フエリス和英女学校の英語専修科に入学し、一九二三年に本科、二五年に研究科卒業。三一年にガイド資格試験に首席で合格した。横浜基督教女子青年会の幹部委員も務めた。渡辺八重(わたなべ・やえ)不詳~一九三一(昭和六)評議員。横浜家庭製作品奨励会会員。横浜上原教会所属の信者で、横浜基督教女子青年会幹部委員でもあった。


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