003【横浜連合婦人会館史を読む】横浜連合婦人会館史 100年のバトンを受けとる

「横浜連合婦人会館史」100年のバトンを受け取る(公益財団法人横浜市男女共同参画推進協会)


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二宮わか(にのみや・わか)一八六一(文久元)~一九三〇(昭和五)理事・評議員。山口県生まれ。中原益の長女で、ワカ、和歌子とも書く。一八七四年に祖母とともに上京して入学した工部省付属女学校が廃校になったため、七六年に横浜の共立女学校(現、横浜共立学園)に転校する。横浜海岸教会でJ・バラから受洗。八一年に卒業し、同郷の二宮安次と結婚する。安次はアメリカでキリスト教徒となり、帰国後は貿易商をしながら教会活動や禁酒運動に貢献している。二宮が社会活動に関わるのは、娘の伊藤あさの思い出によれば(『婦人新報』一九三〇年二月号)、安次と結婚後の旅行の途中、電報で呼び戻され、メソジスト婦人伝道会による警醒小学校の設立に関わったのがきっかけだという。この学校は低所得労働者の居住区にあり、未就学児にも平等に教育の機会を与える目的の貧児教育施設で、わかも教師として教える。大半の生徒が授業料免除のため経営は困難で一九二一年に廃校になる。一八八九年には第二警醒小学校が根岸竹の丸に設立されたが、同じ頃廃校になる。カロライン・ヴァンペテンは、貧児に授産と収入を得させるために、寺子屋のような形で安次のハンカチ工場で働く子供たちに読み書きと貯蓄の帳面付けを教えていた。これを一八九九年に二宮が警醒小学校付属教育所として引き継ぎ、未就学児の学校として、また母親たちの生活や医療の相談も行った。一九一九年には外国人たちの寄付により、中区狸坂に託児部も設置した。横浜連合婦人会館史100年のバトンを受けとる204


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